satoko
金
09
9月
2011
未来ちゃんの眼
ネットで話題になっていた「未来ちゃん」の写真集を書店で見つけたのは、この春のこと。佐渡に暮らす女の子の“やんちゃな四季”を記録したもので、天衣無縫・天真爛漫な姿に、とても人間の子どもとは思えず、つい手にとってしまったのだ。「この子の親は何をしてるんだ!」と驚愕するような場面もあるが、キラキラと輝く澄んだ目でじっとこちらを見つめる未来ちゃんと目が合うと、家に連れて帰らずにはいられなかった。
以来、疲れたなぁと思う夜、パラパラとめくっては未来ちゃんの姿に元気をもらっていた。写真集の中で一番のお気に入りは、ピンクのバケツ(?)のお風呂に入り、難しそうな顔をしている未来ちゃんだ。おそるおそる、お地蔵さんやサボテンや人形を眺める未来ちゃん、側溝に寝そべる未来ちゃん、青っぱな全開で泣いている未来ちゃん、かき氷を餅を、そして雪までも頰張る未来ちゃん。暑さ寒さをものともせず、蒼い海に飛び込み雪の上を転げ回る、好奇心と喜びに満ちた生命力の塊だ。その姿に「綿の国星」のチビ猫がだぶった・・・って、古いですねぇ。
福岡パルコでは、現在、『未来ちゃん』の写真展を開催中。内容はほぼ写真集と同じだが、写真集よりもキョーレツなインパクトで伝わってくるのは、未来ちゃんの眼を通して見た佐渡という自然の雄大な包容力と美しさだ。そして、一時代前にも見える田舎の暮らし。
桜の老木の根元に咲く黄色いラッパ水仙、まぶしすぎる海、秋の紅葉、柿の実、彼岸花。季節毎に色彩あふれる佐渡の地を、やがて包み込むのは白い雪だ。つららから滴る水を大きく口を開けて受け止めた未来ちゃんは、船着き場の向こうに連なる雪山を眺める。上空には青い空。冷たい静けさの中に立つ女の子の眼には、何が映っているのだろう。いつの間にか、50歳の自分が違和感なく未来ちゃんと同化し(失礼!)、遠く白い頂を見つめているような清々しい気持ちになった。
という訳で、最近、お疲れモードの私の身体に元気と潤いを与えてくれた写真展。写真集ではつい未来ちゃんの奇妙な動きに引き込まれてしまうけれど、写真展には“未来ちゃんの眼”を通して見た、かけがえのない日本の姿がある。そんな日本を心に焼き付けて育つ未来ちゃんの未来に、ワクワク。
日
12
6月
2011
志賀さんを囲んで
雑誌『手の間』の撮影でもお世話になっている志賀さん。いつもありがとうございます。
先週土曜でカメラマン『志賀智の仕事展』が終了した。会期中、お運びいただいたみなさまにはお礼申し上げます。ありがとうございました。写真展示は手の間では初の試みだったのだが、印象としては、数は少なくても熱心なファンが多いジャンルだと感じた。そこで「もっと多くの知り合いに見せたい」というお客様の要望にお応えして、展示を17日(金)まで延長することになった。会期中に見逃した方は、どうぞ。もう一度見たい方も、どうぞどうぞ。
今回の写真は、某企業広報誌の仕事を通じて、志賀さんが撮り続けた九州ゆかりの著名人のポートレートと美しい九州の風景だ。ポートレート撮影の裏話では活字に出来ないアクシデント(とばっちり!?)あり、風景撮影では「この一瞬」を切り取るために何度となく現場に足を運んだ忍耐の時あり。一枚の写真の陰には、やはりさまざまなドラマがあった。しかし、志賀さんはいつも飄々として多くを語らない。自慢話もしない。その謙虚で実直な人柄が表れるのだろう、志賀さんの写真には狙い澄ましたあざとさがない。凄いシーンをあっさりと切り取って、「まぁ、こんなところかな」と頭を掻いているような具合だ。
最終日は、夕方4時から手の間で志賀さんを囲む懇談会を開いた。手の間の小さな空間に40〜50人がひしめき合い、志賀さんとお酒を酌み交わした。約1年半ぶりの手の間での作家交流パーティとあって、我々スタッフは久しぶりの飲食イベントに天手古舞い!調理や給仕に追われ、参加していただいた方々にちゃんと楽しんでいただけたかどうか気にかかる。が、誰かを囲むために人が集うっていいな〜と、改めて感じた夜だった。そしてやはり、宴会は予定時刻には終えられない魅力的な(魔力かな)時間だということも。
それにしても残念だったのは、志賀さん。彼は翌日、山口県の実家で朝8時から村の草刈りがあるということで、酔いつぶれることができなかった。差し入れの美酒がたくさんあったのに・・・。また改めて飲もうね、志賀さん!
金
29
4月
2011
チュニジアのストール
マハティアの港
昨日、出かけるときに首に巻いたシルクのショール。玄関を出ると予想外の湿った暖かさに、あわててはずした。アースカラーが何本も走る細いストライプが春の野辺のリズムを刻んでいて、3〜4月のファッションには重宝している一枚。長めのフリンジも気に入っている。けれど、もう初夏。来年までお休みだ。
このショールは3年ほど前にチュニジアを旅したとき、マハティアという小さな海辺の町で買った。ブルーに塗られた家並みが美しいその町では、辻のあちこちで織機の音が響いていた。バッタンバッタンギシッ・・・重いけれど勢いのある音。日本の染織で栄えた地方を取材する度に、「昔は1家に1台織機があって、機を織る音が町中に響いていたものです」という言葉をよく聞くが、どの地域も今やその面影はない。まさかアフリカの海辺でそのような光景に出合えるとは思っていなかった。
今年初めにチュニジアでジャスミン革命が起きたとき、なんだか意外な気がした。アフリカ諸国の中でもチュニジアやエジプトなどのイスラム圏は、比較的安定した地域だと思いこんでいたからだ。実際に都市部は高層ビルが建ち、ハイウエイが走り、物はあふれている。車窓からは、赤い大地に果てしなく続くオリーブ畑が見えた。地方では、小さな乗り合いタクシーやおんぼろバスが旅行者の足となるが、それもよくできたシステムで、危険や不便さは感じなかった。遺跡が中心の観光名所は比較的整備されており、レストランやショッピングモールは自由闊達な雰囲気に包まれていた。極端な貧しさや不穏な空気は感じられなかったのだが。
あれよあれよと言う間にその熱は周辺国に飛び火し、中東のアラブ社会に政変の嵐が吹き荒れている。世界の価値観は、大きく変わりつつある。「僕のストールはフランスへ行くんだよ」と誇らしげに話していた職人は、その渦中で、今も美しい布を織っているのだろうか。
土
23
4月
2011
この1カ月と半分
4月10日頃の吉野/中千本
前回のブログから今日まで、気づくと随分日が過ぎてしまった。そしてその間、個人的にも社会にも、正面から受け止めることが非常に辛く苦しい出来事が起きた。東日本・関東地区で震災の被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げたい。そして、今なお続く厳しい状況に耐えている方々に対しては、何をすればささやかな力になれるのだろうと考える。しかし、私が私の手段を見つけるには、もう少し時間がかかりそうだ。
それでも季節は移ろう。世の中は無常だ。目の前の景色も、今や新緑の生命力がみなぎって息苦しい。若葉に照り返す日射しが目に痛いほどだ。数週間前までは、春の気配も微かに感じられるばかりだったというのに。私もこのぼんやりと霞がかかった意識から、そろそろ目覚めなくてはいけない・・・とは、思うのだが。
4月上旬に吉野を訪れた。今年は寒さの影響で開花は遅れていたが、それでも数十本、見事な花を誇る木々があった。しだれ桜に寄り添えば、身がすっぽりと花に包まれる贅沢。見上げると織りなす花梢の天蓋のなんと美しいこと!格別なのは、行方も知らず風に舞う桜のひとひらであった。
その日、西行庵がある奥千本に開花の兆しは全くなかったが、今頃は満開だろうか。それとももう散ったろうか。
いざ今年散れと桜を語らはむ
なかなかさらば風や惜しむと
日
06
3月
2011
ストーブで小豆を煮る。
先日の大阪出張時に、料理研究家のチエさんにご馳走になった「緑豆乳ぜんざい」
久しぶりの休日。残念な小雨だけれど、でも、窓外の静かで落ち着いた風情は悪くない。少しずつ、春が空気に混じり始めたようだ。ベランダの手すりに下がる雨の丸い滴が、小刻みに揺れながらきらりと光って連なるのも、春の予感めいてうれしくなる。
仕事を持つ主婦にとって、日曜は、たまった家事を片付け、次の1週間の準備をする日という人は多いだろう。私も久しぶりの休日に、大物の洗濯や新聞整理、掃除、食料品のチェックと買い出し、保存食作り・・・と、しなくてはならないことは山盛りだ。なのに、今日は朝から家人がいないこともあり、また雨という天候も手伝って、家事はそこそこに放りだし、ゆっくり過ごすことにした。
誰気兼ねなく好きなお菓子を食べ、テキトーに昼食をすませ、ソファに寝そべって本を読み散らかす。幸せ!
部屋にはストーブが燃え、その上には、小豆をたっぷり入れた鍋。豆はくつくつと煮えながら、しゅわしゅわと白いアクの泡を出し続ける。それを丁寧にすくいながら、ぜんざいにしようか、お汁粉か、いやいや白玉小豆も美味しそう、と悩む。なんて幸せ!
私はストーブの火が好きだ。赤く燃える芯を見ているのは飽きないし、なぜか安心する。その上、豆や芋を美味しく煮込んでくれて、その香りが部屋に充満すると「冬の幸せ」を実感する。シュンシュンと微かな音をたてるヤカンに耳を傾けるのも、心が無になってリラックスできる。
最近はエネルギーを電化することが主流だ。今日の朝刊に、スマートメーター(次世代電力計)の準備が着々と進んでいるという記事が掲載されていたけれど、ここには家庭エネルギーのオール電化が前提にある。確かに、明かりは行灯よりも電灯の方がいいが、料理にはガスの火力がいいし、灯油や薪ストーブの五感に働きかける癒し効果は格別だ。災害時を考えても、エネルギー源は複数ある方が安心だと思うが。
スマートメーター導入で消費電力を見える化すれば、「冷蔵庫の開閉を減らしたからこれだけ節電できた」といった具合に省エネを促す効果が期待できるという。「つけるだけダイエット」の効能を考えれば(!?)これは一定の成果をあげそうな気もする。しかし、待てよ。もう少し、五感を働かそうよ。頭使おうよ・・・そんな気持ちになるのは、私が旧式だからなのね、きっと。
金
18
2月
2011
京都の老舗。
「開化堂」の新バージョン茶筒。携帯用や珈琲豆対応型もある。
新幹線が駅に滑り込んだとき、京都の町には雪が降り始めていた。東京は暖かな薄曇りだったのに、ぐっと冷え込む。駅のホテルにチェックインすると、すぐに私は外へ出た。目指すは茶筒の老舗『開化堂』。3月の企画『育つ器展』に出品していただく商品内容の打ち合わせのためだ。以前一度訪ねた折の記憶では、駅からさほど遠くなかったはず。ボタン雪に包まれた京都の町は美しく、私は歩くことにした。雪に煙る東本願寺や連なる町家に風情を感じながら、想像以上に長い道のりを飽きることなく歩き続けられたのは、まさに京都マジック。他の土地なら、きっとすぐにタクシーに乗っていた。
すっかり濡れた姿で『開化堂』に着くと、八木さんご一家が丁寧に迎えてくださった。ヨーロッパでの発表会を終えて帰国したばかりのご家族は、いつにも増してお忙しくお疲れだろうと思うと、訪ねておきながら私は恐縮してしまった。
ギャラリーでお茶をいただきながら(これがまた美味!)、最近のものづくりの話など伺っていると、巷でささやかれている“海外における日本ブーム”という事象が本当なんだなぁと思えてくる。もちろんそれは、確かな技術に裏打ちされた日本美を感じさせるものに限られているとは思うが、多用なニーズに応えるべく、『開化堂』のような老舗ですら絶えず新しい商品の形を模索しているのだという現実にも感心させられた。『育つ器展』では、スタンダードな茶筒に加え、パリやフランクフルトでも好評を博したニュースタイルの茶筒も並ぶ予定なので、楽しみにしてほしい。
翌日、老舗の桶屋『たる源』へ。冷え冷えとした町家の奥で、一人川尻さんは黙々と手を動かしていた。声をかけるのが憚られたが、思い切って挨拶をする。3度目で川尻さんは私に気づき、仕事の手を休めると、気さくにあれこれ話をしてくださった。事前調査では工房には商品はなく、すべて受注生産だが、注文から完成まで長い時間がかかる人気店と聞いていた。しかしラッキーにも、完成したばかりの商品が5つほどあった。
吉野杉で出来た小ぶりの酒杯を手にとって値段を伺うと、予習していたとおりの金額が返ってきた。しかし、まさか買えるとは思っていなかった私に持ち合わせはない。後日送金するので杯を取り置いて欲しいとお願いすると、なんと川尻さんは、ササッと杯を包み始めた。「そんなの面倒だからいいよ、持って帰って。お金は振り込んでくれればいいから」。その素振りは、京都の人と言うよりも江戸っ子。我々は初対面なのに!驚いた。京都の人は言葉と心は裏腹だと聞くが、本当にいただいていいのだろうか・・・。瞬時の葛藤の後、私は有り難く杯を受け取ると、バッグの中に大事にしまい込み、ぬくぬくした気持ちで大阪へ向かった。
金
18
2月
2011
故 藤本敏夫の草稿。
今週は、東京、京都、大阪の三都出張を2泊3日でこなした。東京といっても経由しただけで、本来の目的地は千葉県松戸。ここでかつての仕事相手がカフェを開いており、彼女を訪ねたのだ。店の名は『waRAuカフェ』。食事やスイーツメニューはすべて、彼女が美味しいと思う品を取り寄せて客に提供している。基本はレトルトだが、きちんと作られたメニューだけに下手な手作りよりも上質。しかも手軽。なので彼女は一人で、30席近くの店を切り盛りしている。
手の間のカクウチも同様の仕組みで、我々は野菜を切るとか蒸すとか、その程度の調理しかしない。後は、農家のおばちゃんや漁師のおじちゃんが作った美味しい加工品と組み合わせるだけだ。しかし、なぜその野菜や加工品をカクウチメニューに選んだのか、生産現場の風景や作り手の思い、商品ができるまでの過程といった背景をお客さんに伝える。まぁ、手は動かさないが(手の間なのに!)口は動かすといった具合だ。
彼女が食の世界に通じているのは、藤本敏夫氏の晩年に、彼の秘書をしていたから。元々はJAL国際線のスチュワーデスだった彼女は、美人で明るく聡明だ。藤本氏の信頼も厚かったのだろう、病床で彼が綴った企画書や未完に終わった本の草稿をどっさり抱えている。今回初めてその一部を見せてもらったが、日本の農業政策改善に関する藤本氏の思考の明瞭さと複眼的アプローチに、改めて圧倒された。目は文字を追うのだが、内容が濃すぎて頭に入ってこない。感じたのは「早すぎた」ということ。藤本氏の思考は、時代の先を行っていたのだと思う。
本の草稿は、ブルーブラックのインクで、原稿用紙に綴られていた。その字の味わい深いこと!大らかさと男らしさと色気のある文字だ。未完に終わった作品のタイトルは、『僕たちの失敗』。すべての章の見出しが、「なぜ僕はカストロを愛せなかったのか」といった具合に、彼が受け入れることのできなかった人物やことがらが並んでいた。その中には興味深い名前も。かなうことなら、この本を読んでみたかった。そしてもしも藤本氏が生きていたなら、今の世界や日本を見てどう言うだろうねと、彼女と私は笑いあった。
火
08
2月
2011
アクすくい。
私がアクをとった鯛。
今年のやりたいことのひとつに、料理教室に通うということを挙げていた。それが2月になってようやく実現。師事したのは、畏れおおくもあの檜山タミ先生。食べるのは好きだけれど、料理のイロハもわかっていないド素人が(しかもこの歳になって!)、熟練した弟子集団と評判の『檜山塾』に、今さら加えていただけるのか心配したが、タミ先生はやさしく「どうぞいらっしゃい」と迎えてくださったのだ。有り難い。
緊張の第1回が、今週7日(月)に開かれた。かっぽう着と手ふきタオルと手帳を抱え、いそいそと先生のマンションに向かう。が、教室ではすでに今日の献立の下ごしらえはほぼ終了していた。遅刻はしていないのだが・・・。今までさんざん料理人や料理研究家を取材してきたが、料理教室の仕組みを取材した経験はない。なので、この段取りの意味が分からない。
しかし、私は新参者。いくら年長者とはいえ、テキパキと動くお弟子さんたちを傍観し、タミ先生と談笑するわけにはいかない。何か手伝わなければ!この心理状態は、姑や小姑に気に入られようと頑張った、結婚1年目の大晦日の台所と同じ。そして手も足も出ないのも、同じ。
実は、この教室には男性参加者が2名いて、彼らは主に先生との会話を楽しみながら、料理からは程よい距離を置いている。どちらかと言えば、実践よりも理論と味見に重点を置いている気配。ホントは私もそうしたいのだが、初回から同じテーブルに腰を据え、談笑に加わるのもいかがなものか。私は鯛の皮をはいでいる女性に恐る恐る声を掛け、なんとかゲットした仕事は、アクすくい。分相応の仕事に、ちょっとホッとした。
この日の献立は、潮汁、鯛の刺身、くもこの茶碗蒸し、金柑の甘煮。印象的だったのは、潮汁だ。これは鯛の中骨とアラだけで出汁をとり、昆布は使わず、塩で調えるだけ。蕗の薹の花の部分をつぶしたものと柚子を添えるが、まず柚子がふわりと香り、しっかりした味わいの汁を堪能した後に、蕗の薹の苦さが追いかけてくる。美味しかった。
山葵をすりおろすとき、先生はカワハギの皮をカマボコ板に巻いて作った手製のおろし器を見せてくださった。「鮫皮のものがいいけれど、なければ自分で作ればいいのよ」とおっしゃる。こういう柔軟な発想が私は好きだ。今は、先生のレシピ説明は半分程度しかすんなり頭に入らないが、道具のことにしろ食材のことにしろ、メモだけはしっかり残していずれ実践できるようになりたい。
土
05
2月
2011
銭湯通い。
セルーのキャンプロッジ。森の中の食堂の回りには、ハンモックが並び、これに寝そべって過ごす時間は素晴らしかった。
今週、給湯器が壊れた。交換は来週火曜まで無理ということで、銭湯通いをすることになった。この寒い季節についてない、と嘆いたが、どうせなら銭湯生活を楽しんでみようと気をとり直し、近所にある昔ながらの『大学湯』のみならず、未体験のスーパー銭湯というものにも足をのばしてみることに。明日の日曜は、近郊の温泉に行ってみるつもりだ。
お湯が出なくなって困るのは、皿洗いや洗面時の冷たさだ。できるだけ洗い物を作りたくないという心理が働き、いっきに料理に対するモチベーションが下がってしまった。中華鍋ひとつでできるチャンポンやホーロー鍋で煮込むだけのシチューなど、調理法においてもその手抜きぶりは我ながら凄まじい。しかし何より、長年の習慣である朝風呂あるいは朝シャワーができないことが辛い。いつの間にやら、贅沢な身体になったものだ。
先日、宮古島で泊まった民宿は、私の部屋だけシャワーがついていた。しかし、いつまで待っても出てくるのは水。いくら春の陽気の宮古島と言えど、さすがに水シャワーはきつい。すっかり冷え切った身体を抱えて布団に潜り込むと、ふとサファリのキャンプを思い出した。
それはタンザニアにあるセルー・ゲームリザーブでのこと。大河を見下ろす丘の上に立つテンティッドキャンプは、連日、灼熱の中にあった。そこでのシャワーは、ルフィジ川から引いてきた水。簡単に濾過しただけの水は茶色く濁ったままで温度は低い。どんなに暑くても水のシャワーを浴びると身体はいっきに冷えた。
森の中の食堂はさすがにイタリア人が経営するだけあって、料理は美味しかった。が、水差しに入った水は、たくさんのライムを浮かべても生臭く、缶ビールは冷蔵庫(らしき四角い箱)から出てくるが全く冷えていない。
キャンプ滞在中に大晦日を迎えた。その夜は、宿泊客の7〜8人ほどが食後もテントに引き上げず、裸電球が照らす食堂で雑音混じりのラジオに耳を傾けながら、ただ静かに時を過ごしていた。見上げる夜空は満天の星空というよりも、吸い込まれそうな漆黒の闇。時が渋滞して、流れを遅らせているような気がした。やがて何気ない口調でラジオが新年を告げたとき、キャンプのオーナーがこれまた静かにスパークリングワインを開け、客にふるまった。みな「ハッピーニューイヤー」の黙礼をし、飲み干すと再び、裸電球1個の静寂が辺りを覆った。静かな静かな年明けのスパークリングワインは、常温だった。
日本での暮らしが必要以上の清潔さと快適さで埋め尽くされているので、私たちはそのレベルが当然だと思い込み、小さな不都合にも腹を立てる。しかし存外、無ければ無いで人間は順応できるものだ。数十年前までは、洗面器を抱えて銭湯通いをすることも、冬の水仕事で手がアカギレすることも、特別なことではなかったはず。もっと生きる力をあげないとしんどくなるぞ!と自らに言い聞かせ、今夜も寒空の下、銭湯に通う。
月
31
1月
2011
仲間募集をつぶやく。
このブログを読んでくださっている方の中に、手の間のカクウチ営業を手伝いたいという人はいないだろうか?飲食店勤務の経験がなくても構わないけれど、食に興味があって、人と話すのが好きな人で、夕方から夜にかけての勤務が可能な人。ずっと休んでいたカクウチを再開したいと思っているのに、残念ながら、私の身体がフル回転を拒絶している。なので、サポートしてくれる人が欲しいのだ。
それからもうひとつ。編集業務を覚えたい人はいないだろうか。ぶっちゃけ、私のところに丁稚奉公に来てくれる人はいないだろうか、という話。今どきそんな殊勝な人はいないと知りつつ、職人の世界や建築業界にはまだまだ丁稚の仕組みが残っていて、師弟の様子を見るにつけうらやましくて仕方ない。充分な給金はないけれど、編集業務のイロハを覚えたい人はいませんか?私の知っているすべてのことを教えます。まぁ、さほどノウハウがあるわけではないので、マイブログの中でつぶやいてみた。興味がある方は連絡ください。
というのも、1月25日に九大の教育学部で1コマの講義をうけもったときのこと。現代社会における『場』の役割やその形について考える内容で、私は自らの経験を踏まえながら、『手の間』の活動について話をした。学生は私の子ども世代。いったい何人がリアルな実感をもって耳を傾けてくれるのか始めは不安だったが、終わってみると数人には確実に届いたという手応えを感じ、うれしかった。同時に『手の間』の存在について改めて見つめてみるいい機会となった。ゼミ担当の岡幸江先生には感謝感謝だ。
で、講義終了後、実に愛らしい学生の一人がアルバイトを申し出てきた。これには驚いた。『手の間』の何が魅力的に映るのか、私がじっくり彼女の話を聞きたいくらいだ。その時、ふと思った。もしかしたら『手の間』と関わりたいと思ってくれている人は他にもいるのかも、と。私も仲間はたくさん欲しい。そんなこんなで、まずは私の気持ちを、まだ見ぬあなたへ投げかけてみる次第です。
日
30
1月
2011
手の間のレンタルスペース
北九州の寿司の『もり田』さんで使っている『たる源』の杉杯。
気づくともう1月も終わる。お正月にたてた誓いのなかには、すでに守られていないものもいくつか出てきた。我ながら崩れ方の早さに呆れてしまう。もう一度仕切り直して、今日から再スタート!ブログもまとめ更新ではいけないなぁと反省している。
さて、サイトのトップにも書いたけれど、手の間は空間の一部を改装して2月からレンタルスペースとして積極的に貸し出していくことになった。大きな窓を2面潰し、漆喰の壁を造り、それに添うように磨き漆喰の吊り棚を付けた。カウンターや水回りのある空間との境には障子スクリーン。今回も建築巧房の高木さん&田中さん、大工の野口さん、そして原田左研のみなさまにお世話になった。お陰ですっきりまとまった空間が出来上がった。ありがとうございました。手の間を、手仕事・手技に励むいろんな方の発表の場にしてもらえるとうれしいなぁと思っている。
スペース貸し出しに合わせて、手の間ショップの運営時間も見直すことに。2月7日(月)から10時〜19時を営業時間とします。基本的には月曜から土曜営業で、日曜祝日はお休み。ただし、イベントが行なわれている場合は日曜祝日も開いています。遊びに来てくださる方は、事前にホームページをチェックするかお電話を。
積極的に貸し出していくとはいえ、もちろん、手の間主催の企画展も開く。今、その準備を進めていて、昨日はDM用の撮影をした。「道具は使うほどに味わいを増す」をテーマに3月11日〜17日に開催する『育つ器展』がそれ。使い込まれた茶筒、竹ざる、杉樽、ちろりを紹介予定だ。もちろん新品も準備するので、育ててみたいと感じた人はご購入を。
火
25
1月
2011
宮古島、そして沖縄本島へ
20日から仕事で宮古島、その後、沖縄本島へと出かけてきた。今回は朝4時に取材スタートする日があることがわかっていたため、私は用心して、薄手のセーターや重ね着用コットンのカットソー、そして腹巻き3種をスーツケースに詰め込んで旅立った。いくら宮古島といえども、1月だもの、肌寒いに違いない。そう決めつけて。
しかし、甘かった。那覇空港に降り立つと、もわぁっとした生ぬるい空気が私を包んだ。ロビーにはTシャツ姿の人も。そしてさらに南下した宮古島は、完全に春。心地よい4月を思わせる風がそよぐ、素晴らしく快適な気候だったのだ。感動的だったのは、その海の色。滞在期間中は時折小雨がパラつく日もあったけれど、どんな天気でも、海の色は抜群に美しい。コバルトブルーとペパーミントグリーンの海原から、波の白いレースが寄せては返す浜辺の、白くこまやかな砂のやわらかいこと!リタイアしたら12月〜3月は、南の島に住みたいと心底思った。
今回の取材では体験できなかったが、宮古島ではその昔、パパイヤの根っこを食べていたのだそうだ。もちろん、奄美大島同様、蘇鉄も食べていた。しかし、蘇鉄が貧しさ故だとしても、パパイヤの根っこはそうとは限らないそうだ。それほど美味しいのだとか。次回はぜひ、Nさん手製のパパイヤの根っこ料理を食べてみたい。
以下は今回の旅の写真。クリックしてください。上から順に、「宮古島下地地区の前浜にて。向こうに見えるのは栗間島」「宮古島は池間島とも橋でつながっている。右に見えるのが池間大橋」「池間島の中心部には渡り鳥が集まる湿地帯があった」「沖縄本島読谷にある“やちむんの里”近くにある店で沖縄そば500円を頼んだら、なんとフーチバジューシー(よもぎの炊き込みご飯)までついてきた!」「読谷で見た城(グスク)跡。曲線の造形がいかにもゆるい」「名護の市役所は寒緋桜が咲いていた。デザイン性の高い市庁舎には表情もさまざまなシーサーが何体も据えられている」「首里の金細工師・またよしさんの工房にて。房指輪とジーファー(かんざし)を持っている私は、今回は、月桃の葉をモチーフにしたネックレスを分けていただいた」「那覇市内のモノレールに初めて乗った。空中散歩はかなり快適!」
土
08
1月
2011
2011年が始まった。
十日恵比寿神社本殿裏側に奉られている恵比寿さまたちにも、お賽銭をあげてお参りした。
新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年の手の間は5日にスタートし、あっという間に最初の週が終わってしまった。今年がこんな調子で行き過ぎてしまわないよう、仕事にプライベートに、一瞬一瞬を意識して大事に生きなければ!と改めて思い直している。なんといっても、私は今年で50歳。半世紀を生きたのだから。
で、今日はスタッフと恒例の十日恵比寿へ。商売繁盛を祈り、新しいお札を分けていただき、福みくじをひいた。運勢は「末吉」で、万事控えめにせよ、自ら率先して動くなとのお告げ。それを守ればとにかく今年は「めで鯛」のだそうだ。う〜む、厳しい。気を取り直し、その足でお櫛田さんへと向かい、同じく商売繁盛を祈願。川端商店街を抜け、観光客で賑わう『千加栄』で熱燗付きランチをとるという“王道博多コース”を満喫して、ささやかな2011年キックオフ行事とした。
夕方、手の間の裏にある家庭料理の店『月のうさぎ』でカメラマンのKちゃんと待ち合わせ、2011年度の契約について意見交換。二人とも今夜が“新年初うさぎさん”ということで、お店から『開運』の振る舞い酒をいただいた。嬉しいなぁ〜。この店で飲む日本酒が一番美味しい!福岡市内の飲食店で日本酒のラインナップを見ると、だいたいどこの酒屋とお付き合いをしているのか見える。つまり原価もわかる。だから、形だけの蘊蓄を聞かされ、その酒への感想も愛着も持たない店主に不当に高額の(高級グラスの使用料が含まれているとしか思えないような)酒を飲まされて興ざめすることもあるが、そんな時は私はうさぎさんで飲み直すことにしている。また、この店を切り盛りするYご夫妻ほど、いつも変わらない心温まるもてなしをしてくれる人々を私は知らない。誰に対しても丁寧で、分け隔てなくやさしく、気遣いを惜しまない。心が疲れたなぁと思うとき、私はこの店のカウンターに座る。女性一人客は意外と多い。みな、美味しくて癒し効果のあるカウンターに引き寄せられるのだろう。
21時からはC学園のK先生と中洲の『西川亭』で待ち合わせ、データ入稿前の最終校正をする。マスターにも確認をし、本のタイトルを『パブ西川亭 ドリンクノート』に決定。発行日は4月25日の開店30周年に合わせることにした。タイミングよく出版発起人グループのドン・I理事長も店に現れたので、発行者名も『西川亭八人会』に決まった。順調。
その後、上階にある友人の店『エピローグ』へ。ママのEちゃんは元同僚。彼女が年末に急病で入院することになり、退院までの2ヶ月間を急遽スタッフだけで回さなくてはならなくなったため、新年早々人手不足に陥っているのだ。私は臨時スタッフ探しに協力することに。で、リーダーのAちゃんに業務内容を聞き、現時点でのシフト表を見せてもらったのだが、明日にも誰か追加人員が必要な状況は一目瞭然!想像以上にピンチだ!私が店に立てればいいのだが年齢オーバー。トホホ。気持ちはあっても力になれないのが悲しい。
私たちくらいの年代になると身体のあちこちにガタがきて、急遽入院なんて話は珍しくない。私も昨年は病気が続いたし今年はどうも気力が湧かない。身体能力の翳りに弱気にもなる。人生には、節目とは別のステージがあるのだろう。もしかしたらEちゃんも私も、そろそろ衣装を着替えて、今とは別のステージに立つ時なのかもしれない。
金
31
12月
2010
今年もありがとうございました。
昨夜、最後の忘年会を終えた。今年は昨年よりも忘年会の数をこなしたのに、結局、日頃お世話になっているお店のすべてには、顔を出せないままに終わった。そっくり新年会に持ち越すことに。が、年明け早々、いくつかの案件が重なっているから、いきなり仕事モード全開のスタートだなぁ・・・などと考えつつブラインドを開けると、外は銀世界!急に気持ちがシャンとなった。そう、今日は大晦日だ。
なんとか残りの掃除を終えて、夕方までには実家に帰らなければならない。そして、年越し蕎麦を食べ、除夜の鐘をつき、新しい年を新しい気持ちで迎えよう。終わりと始まり。今日と明日は、いつものようでいつもじゃない日だ。
さてもさても、今年一年、お世話になったすべての方々にお礼を申し上げます。手の間は来年が新装開店!新しいことにチャレンジしながら、きちんと手仕事の取材&発表も続けていきたいと思います。本当にありがとうございました。そして、来年もどうぞよろしくお願いいたします!
火
28
12月
2010
恒例の餅つき
餅つきも上手い武富さん。今年は杵が小さくなった。これは我々の力を考えてのこと。やさしいなぁ。
今日は恒例の餅つき。佐賀県江北町で農業を営む武富勝彦さんの自宅にスタッフ全員で押しかけ、赤米・黒米・緑米の餅をつき、事務所の鏡餅をつくるのが、ここ数年の年末行事だ。迷惑な話だろうに、武富さんとおばちゃんはイヤな顔ひとつせず、我々を迎えてくれる。そこで食べるつきたての餅は、とても美味しい。赤・黒・緑の古代米は、餅米を混ぜなくてもそれ単体で立派な餅となる。色も味わいも力強い。100%古代米の餅を食べると、普通の餅では物足りなくなる。
つきたての餅を丸めながら、同時に食べる。食べる餅は臼から両手でつかめるほどの分量をちぎり取り、湯に浮かべる。それを各自で小さくちぎり、口に入れる。農家の庭先の豪快な食事という感じだ。武富さんお手製の柚子胡椒・木酢胡椒をつけると風味倍増。食欲が止まらない。スルスルといくらでも入る!と調子に乗っていると、だんだん餅が胃の中で膨らんできて大変なことになるのは経験済みなのに、つい餅をちぎって口に運んでしまう。
食べ飽きたなぁと思う頃、汁が出る。これも絶品。今年の具材は、手製の地鶏つくねと一粒牡蠣と大根。大根はわざわざアク抜きをして別茹でし、最後に併せる。ちょっとしたことに手を抜かないのが、武富料理のすごいところだ。武富さんの調理法にはいつもちゃんと理屈があって、それを必ず守って作る。だから、本当に滋味あふれて美味しい。今年は餡も作ってくれていたので、デザートも餅。ちゃんと別腹に入るから不思議だ。武富さん、毎年ありがとう!
日
26
12月
2010
心はポルトガルの島々へ
左端がマデイラワイン、その横が61年バローロ。
昨日に引き続き、今日も今年の最も貴重な一日となった。今夜はワイン会。「クッキン」の小川さんに声をかけていただいたのだ。私の生まれ年は、20世紀三大当たり年と言われた1961年で、今まで2回しかその年のワインを口にしたことがない。思い出深い1本は『グロリア』。これは、10年ほど前に小川さんが関わっていた「ボランジェの会」に私も参加していて、その定例会で出されたもの。美味しかった。仕事の都合で一足先に会場を出なければならない私に、小川さんは残りの瓶をくれた。大切に事務所まで持ち帰り、仕事をしながら澱まで飲んだ。澱までも、素敵な素敵な味がした。
11月のある日、「クッキン」でその思い出話をしていると、おもむろに小川さんがテーブルに持ってきたのが、61年のバローロ!「これを12月26日に開けます。8人程度の小さなワイン会ですが、いらっしゃいませんか?」。手帳も見ずに、即OKした。
ワイン会では全部で9本を空けた。61年のバローロももちろん美味しかったが、私の中の最高金賞に輝いたのは、1875年のマデイラワインだ。緑の瓶に書かれた文字はところどころ剥げて、年代を感じさせる。風味もそのように充分こなれていて、たっぷりとした抱擁力があった。どこまでもやさしく、甘く、くどくなく、大げさに言えば、アフロディーテのような・・・って、どんな感じよ?
来年の6月頃、アゾレスに行こうと計画しているが、そのコースにマデイラも組み込むことにしようと思う。かつてポルトガルを訪ねた折は、日程の関係もあり、またさほど知識を持ち合わせていなかったこともあって、アゾレスへ渡ることはしなかった。しかし先日、福岡の至宝の一人(と、思っている人は多いと思う)料理家の檜山タミさんを取材したときに、檜山先生が「いろんなところを旅したけれど、また行きたいところはアゾレス。だって美味しいんだもの」とおっしゃった。そして今夜の極上マデイラ。であれば、ポルトガルの島々を訪ねないわけにはいかない。
帰り際、小川さんはマデイラを注いだ空のワイングラスにラップをかけ、持たせてくれた。「2〜3日は香りを楽しめますよ」。多分私は、年内はこの香りに酔い続けるだろう。ラップの端を少しめくっては鼻先を突っ込んでクンクン。その姿はアフロディーテではなく、メドゥーサさながらではある。
土
25
12月
2010
さよならだけが人生だ!!
今日は今年の最も貴重な一日となった。初めてお茶事を体験したのだ。招いてくださったのは、手の間のイベントを通じて知り合ったIさんという素敵なお姉さん。客は陶芸家のUさん、デザインディレクターのKさん、アートディレクターのGさん、そして不肖私。学生時代に2年ほど裏千家の先生のところへ通ったが、お茶事どころかお茶会すらろくに経験のない私は、楽しみ半分・不安半分で当日を迎えた。
悩んだのは服装だ。気軽な集まりと聞いてはいても、パンツスタイルよりスカートがベターだろう。茶室に入る前に白い靴下にはきかえるなら、ストッキングよりもハイソックスの方が脱ぎ着しやすいはず。待合いに出入りするのにロングブーツは他の人に迷惑だからパンプスで・・・と考えていると、予想以上の薄着となってしまった。しかし私は考えた。今どきの茶室は冷暖房完備かも、と。
早良区石釜にある「雪折庵」に着いた頃から、粉雪が舞い始めた。木戸には「在釜」の提灯が。正客であるUさんを先頭に庵の中へ進むと、蕗の葉や椿の緑に雪がうっすらと降り積もり、赤い実がところどころ灯火のように顔をのぞかせている。そのコントラストの美しさ、絵のような荘厳さに途端に胸がキュンとなった。上質な小説の冒頭から、いっきにのめり込んでしまうのと同じトリップ感。久しぶりにときめいた。
待合いで白湯をいただき、待つことしばし。火鉢の炭も灰もきれいなこと!そして、コートを脱いだ身のシンシンと冷えること!席入りが始まると、正客から順次、庭を歩いて茶室のにじり口へ。外は相変わらずの粉雪。足下はわらじ、頭には竹皮で編んだ笠を差し掛けて歩く。笠に粉雪が降りかかり、耳元をザザーッと走り抜ける音は風情の極み。初めて聞くその音に、松籟が重なった。
茶室はさながら宇宙だ。4畳半を支配するのは薄暗闇で、すべての輪郭がにじんでいる。朱を塗りつけたようにぼわっと炉を照らす炭の火が、唯一の寄る辺。ホテルの間接照明にはイラッとするのに、小空間の闇に微かな光が創り出すあわいの世界には、こんなにも心が落ち着くとは思いもしなかった。身体がふわりと浮くような神秘的な感覚に、私はボーッと酔ってしまった。
粥茶事は、10時間ほど水に浸けておいた米を羽釜で炊いていく。それをご馳走とお酒とともに味わう。湯に浮かぶサラサラの粥から、もっちりとふくらんだ粥まで、刻々と変化する粥をおかわりすること4回。粥に酒。かなり美味しい組み合わせだ。目が慣れてくるとは言え、ほの暗い空間では、次々に運ばれる料理や器はおぼろげにしか見えない。だからこそ五感が敏感になって、食材の味ひとつにひとつが深まるし、酒器や皿も手触りでその素晴らしさがわかる。
ふとUさんが、「これは私の師匠が焼いた酒器です」と言って由来を話し始めた。ひょうたん徳利の胴に刻まれているのは、晩唐の詩人・于武陵の詩。「この盃を受けてくれ/どうぞなみなみつがせておくれ/花に嵐のたとえもあるぞ/さよならだけが人生だ」と、Uさんが井伏鱒二の漢詩訳を詠う。互いの盃に酒を満たすと、私の胸もまた感慨に満たされた。明日は戦場へと向かう武士の心境だ。そう、この同じひと時は、二度とない。中立の後、庭の腰掛けに並んでお菓子をいただき、ドラの音を合図に改めて茶室へ。濃茶、薄茶と楽しんだ。
世界中に飲食のセレモニーは多いが、茶事ほどの繊細さ複雑さ完成度を誇るセレモニーは他にあるだろうか。いったいこの日本の文化は何に根ざすのか。薄明かりに浮かぶ軸や花を愛でながら、道具や料理や酒、茶を楽しむ。この一期一会のために尽くされる、亭主のもてなしの心。そこに編み込まれる四季の風情と美。私の未熟な経験値でさえ感じ入ることができるのは、やはり日本人のDNAなのか。道具にしろ、花にしろ、書にしろ、すべてが噛み合って初めて美しいのだということが、そしてそれをいきいきとした心ある時間に変えるのが料理と酒なのだということが、実感としてわかった。これぞまさに日本の食文化の極み。今までバラバラに理解していたものが、私の中で、ようやく同じ方向を向いたような気がした。
そしてわかったことがもうひとつ。現代でも茶室は凍えるほど寒いということ。木と紙と土でできた建物は、ワンピース1枚では歯の根が合わない。が、不思議なことに自らを励ませば、耐えられないほどでもない。きっと、いつもは働かない神経が作用して、体内の感覚変化をおこさせたのだろう。お陰でどんなに飲んでも酔っぱらうこともなく、正座も続けられた。人間、緊張感が大事なんですね。
水
22
12月
2010
南国の空気は熟れた果実の香り
薬膳のような料理。宮古島で人気の民宿にて。
20日〜21日と某企業広報誌のロケハンで、宮古島へ行ってきた。島は想像以上に暖かく、長袖Tシャツという軽装でも、車内で日射しを浴びていると汗ばむほど。思わずクーラーをかけた。それにしても暑い地域へ行くたびに感じるのだが、空気中に漂うあのエキゾチックな香りは何だろう?ココナッツオイルのような、バラの花のような、一瞬くらっと目眩がしそうなほどむせ返る香り。私は嫌いではない。
その香りを懐かしく感じてしまうのは、私が一時期暮らしたダルエスサラームにも、同じ香りが充満していたからだろう。その家の庭では赤いブーゲンビリアやハイビスカスが咲き、椰子の木が茂り、パパイアもアボガドも実った。情熱的な花々や南国果実の香が混じり合い、熱せられた空気に溶け込んでいたのか。太陽が高くなるにつれ、何とも言えない甘い香りが濃くなっていった。
宮古島で食べた野菜は、ほとんどが薬草と言ってよい。評判どおり美味しいのだが、軽く茹でた程度や生食では、食べ続けるにはやや胃が辛くなる香気とえぐみがあった。また、基本的な調味料文化が本土と宮古島では大きく異なるため、一皿一皿の味わいが妙にスパイシーに感じられ食べ飽きた。味付けに島胡椒や粉ピーナツ、黒糖といったパンチのある素材が多用されていたからだろう。
私の身体が喜んだのは、果実だ。市場で食材のリサーチをすると、見慣れない野菜や肉、魚より何より、果実に目が向いた。宮古島は今、メロン栽培の最盛期らしく売り場にゴロゴロと並んでいた。その味わいはマクワウリを思わせるシンプルさで瑞々しい。私の指ほどの長さのモンキーバナナは、デラウエアの香りとオレンジの酸味が混じり合う複雑な風味。日頃食べているバナナは何なんだ!と思うほど、島バナナは圧倒的に美味しい。そして、実の中までが赤い(私が今まで食べてきたのは皮は赤く実は白)ドラゴンフルーツとグアバをたっぷり使ったジュースを飲むと、まるでイチゴのよう!それらの果実は私の血管の隅々にまで行き渡り、身体中をきれいに掃除してくれたような気がした。フレッシュ!フレッシュ!リフレッシュ!だ。
で、お土産につい果実を買い込んでしまった。メロン、島バナナ、ドラゴンフルーツとグアバの冷凍ペースト(10袋も!)。それに、未体験のアマサンというオレンジにアケビのような形のサポジラ。そういえば、ダルエスサラームでも一番美味しかったのはマンゴーだったな。島バナナはなかったけれど、赤い皮のむっちりしたバナナは酸味と甘みが豊かで美味しかった。どれも太陽の日射しをたっぷりに浴びて熟れた果実本来の味がした。やっぱり南国の空気に混じる濃厚な甘さは果実から発せられているのだろう・・・と、ありえない美味しさの島バナナを食べながら、改めて確信している。
水
15
12月
2010
年下の男性に教わる。
今日は「青年実業家」とランチをご一緒した。まだ35歳というその人は、飛び級でアメリカの大学を卒業し、20代で年商10億円を越えるグループ企業をつくったそうだ。とても腰が低く、穏やかな口調で話す上品な姿からは、「20代で10億つかむチャンスの見つけ方」などをテーマに講演をするアグレッシブな人物には見えない。
私も時折、ソフトなビジネス書や自己啓発系のマナー書などを読む。今年は、小山登美夫「何もしないプロデュース術」、泉正人「人生が変わるお金の大事な話」、やましたひでこ「断捨離」など。臼井由妃の「デキる女は仕上げがうまい」も買ったが、これはさすがに、レジに出すときは恥ずかしかった。
意外にも面白かったのが、話題の「もしドラ」。ストーリーは他愛もないが、要所要所に散りばめられたドラッカーの言葉がさすがに深い。いきなり「マネジメント」を読みくだすことは私には無理だろうけれど、「もしドラ」が入門書の役割を果たしてくれたので、時間をかければ「マネジメント」もいけそうだ。
しかし、私はこれらの本を読んでも妄想の世界に浸るだけ。実際に成功している実業家は発想が自在だし、「ねばならない」思考がない。自分が何をしたいのかが目的ではなく、目的が事業なのだ。そのことが、今日、彼と話していてよ〜くわかった。中古トラクターの貿易業に始まり、産廃事業を手がけ、ITで飛躍した彼が現在取り組んでいるのは、「たらすみ」という加工食品の販売。いやはや、実業家という人間の着眼点と柔軟性、システムを創り上げる能力に舌を巻いた。ただただ、ため息。もう私は金輪際、ビジネス書には手を出すまい。
火
14
12月
2010
西川亭レシピブック
渋いマスターがつくるお酒は正統派。撮影/大野金繁
昨夜は久しぶりに中洲で過ごした。昔に比べると中洲には粋や風情がなくなったし、人間模様の深淵を垣間見させてくれるドラマチックな店も、もはやない。そんな中洲にあって、昔ながらの表情を崩さないバーがある。『西川亭』だ。くの字型のカウンターを囲む止まり木は無数の客の手で艶やかに磨き上げられ、その片隅にはダイヤル式の電話がポツンと一台。そこかしこに、数十年の時が澱のように積んでいる。埋み火のように密かに熱い空間だ。
縁あって、私は今、マスターのレシピブックを作っている。A4のノートに端正な文字がびっしりと書き込まれた300ページを超すファイルを目にしたときは、心底驚いた。それは、マスターが仕事の合間をぬい、知識欲のおもむくままに調べ、作り、改良を加え、コツコツと築きあげた職人的酒の記録。が、単にアルコールの調合割合が綴られているのではない、バーテンダーとしての心得までもがうかがえる「作法の書」だと、私は感じた。
直筆のファイルは目次に始まり、索引に終わる。すでに手を加える必要がほとんどない完成度だ。それを、「中洲の記録として本にして、多くの人に伝えたい」という西川亭ファンがいた。C学園グループのI先生やK先生だ。マスターが望んだわけではないが、先生方およびその周囲のおせっかいグループが動き、来春の発行を目指して『西川亭レシピブック』の作業が進んでいるというわけだ。
私が取り組んでから2年の月日が流れた。膨大な量のレシピひとつひとつに目を通していくのは、骨が折れる作業だ。活字となった校正紙をチェックしながら、「もしかしたら、マスターの味のある直筆をコピーして希望者に配布するだけでよかったのかも」と、思った日もある。しかし、店内撮影も終え、いよいよ本の形が見える最終段階までくると、やはり心が浮き立つ。年明け早々にはデータ入稿ができそうだ!
で、昨夜の私はと言うと、仕事仲間と一緒にクラブで女の子をはべらせ、路地裏のスナックで聖子ちゃんを熱唱。粋も風情もなく、騒がしいだけの中洲の夜を過ごした。ただのオヤジ酒なのである。
日
12
12月
2010
1枚の葉書に励まされる
今年の4月から9月にかけて、市政だよりにコラムを執筆させていただいた。配布数が多いだけに反応もあり、手の間を訪ねて来てくださる方やお便りをくださる方もいらっしゃった。知人からは「読んでるよ!」と声を掛けられた。みなさん、ありがとうございました。
で、一昨日は、執筆の機会をくれた市役所の人(と言っても私のかつての上司であり、今では友人)と食事。昔からそうなのだが、私はいつも彼女の芸術全般に対する興味の広さに感嘆する。その夜も、とりとめのないくらい全方位型で、舞台やオペラやアート、そして料理と食の話題を肴に焼鳥をつついた。
帰り際、「そうそう、さとこちゃんにファンレターを渡すのを、また忘れるところやった」と言って1通の葉書をくれた。消印は9月。差出人は、私のコラム最終回にあたって、感想とお礼を綴ってくださっていた。市役所に葉書を送るということは、ネットで手の間の住所を調べることができない環境にいらっしゃるのだろう。一文字一文字の几帳面さ、拝啓に始まり敬具で終わる文面の丁寧さから、私は差出人の姿を想像し、しみじみと嬉しかった。今の自分の方向性に自信もわいてきた。ありがとうございました。
随分昔の話だが、やはり1通の葉書に励まされたことがある。連日、残業で朝帰り。ひどいときは、空いた椅子を連ねてベッドを作り仮眠をとる・・・というような日々が、いつ終わるともなく続いていた時期。2週間に1度の締め切りに追われつつ、新しい情報を追い求める繰り返しに、心身ともに折れそうになっていた。私は誰のために何を御そうと格闘し疲れているのか、その理由がつかめていなかった。漠としたものと向かい合う感覚の、気持ち悪さだけがあった。
そんな折、編集部に絵葉書が届いた。表には夏の北海道の並木道。心に爽やかな風が吹き渡るようだった。裏には「あなたの頑張りが、読者、ひいては福岡市民を元気づけていることを信じて、頑張ってください」と綴られていた。見透かされているようで驚いた。じ〜んと胸に響いた。差出人には「福岡市の西の学校教師」とあった。返信の出しようもなく、私は編集後記にお礼の言葉を書いた。
雑誌の向こう側が見えるようになったのは、その時からだ。読者という像が、実感できるようになった。漠としたものの焦点が、ようやく合った。業務を、自分への評価のために優等生的にこなしていた「会社員」から、少しだけ、「編集者」に近づかせてくれた大切な1枚の葉書。その有り難さを、私はずっと忘れない。
土
11
12月
2010
大きな手帳は手放せない。
井上ひさしの「ボローニャ紀行」を読んで、ぜひこの織機の音を聞きたいと、旅に出たことを思い出した。
スマートフォンの需要が伸びた今日、来年の手帳はコンパクトサイズが売れているのだそうだ。日常のスケジュール管理はスマートフォンで済ませるから、手帳はサブ。大きなものは必要ないという。
私も仕事用にスマートフォンを持っているが、宝の持ち腐れ。しかし、仮に私がスマートフォンを使いこなせたとしても、負け惜しみではなく、大きな手帳は手放さないと思う。そこに記されたアポの記録や走り書きのメモをパラパラとめくる度、書かれた文字の形や勢いから、その時の自分の心持ちや思想が、昨日のことのように思い出されるからだ。私にとって手帳は、仕事道具であり、私事道具でもある。
今年は、イタリア語を学ぼうとしたこと(新年をボローニャで迎えたのでその影響)に始まった。2月には「神は準備をした人に道を与える」という殴り書きが見える。仕事の選択で悩みがあった時期だ。そして、2010年に行きたい店や会いたい作家の名前も、欄外にちょこちょこと書き付けられている。実現できたのは半数くらいだろうか。4月後半には2週間の休みをとってキューバへ行っているが、随分と遠い出来事のようだ。
6〜7月には、観たドキュメンタリーの記録が多い。シリアにあるキリスト教の隠れ里マールーラ村を描いた作品やレバノン内戦時の宗教対立の話、インドのティハール収容所を改革したキラン・ベディの物語に、反アパルトヘイト指導者のオリバー・タンボの半生、現在の南アを引っ張る女性政治家ヘレン・ズィレの政権奪取への闘い、コロンビアはボゴダを劇的に変えた二人の市長、アンタナス・モックスとエンリケ・ペニャロサの改革劇などなど。
しかし8月以降は、そういう記録がぱったりと途絶え、アポの数が恐ろしいくらいに増えている。その無味乾燥な状態は11月まで続く。確かにその頃の記憶は仕事一辺倒。私は手帳には、業務アポ以外にもやるべき事を書き連ねていき、実行したことから線を引いて消してゆく。しかし、足を運ぶべき作家の個展スケジュールやご挨拶回り、礼状書きなどには線が引かれないまま、今日までそっくり残っている。今年の不義理・不始末の数がひと目で分かるというわけだ。反省。
一年は驚くほど早く過ぎるけれど、こうやって手帳を読み返してみると、無為に過ごしたわけではないことが実感できる。来週は新しい手帳を買って、今年やり残したことを1月欄に書き込もうと思う。
木
09
12月
2010
クリスマスの花籠
赤白緑。確かにクリスマスカラーではあるが。
月に3回、木曜にお花のお稽古をしている。手の間から歩いて10分ほどの場所にある「花屋Ogami」の2階がお稽古場。きっかけは、手の間8号でも紹介している大神嘉彦さんに、ある作家の個展会場ディスプレイをお願いしたこと。その折に、彼の花屋で草月流の先生をお迎えして教室を開いていると知り(大神さんも草月流の師範)、通うことに決めた。
忙しい身では月に3回のお稽古を続けることは厳しい。が、幸い会場が近所なので、昼食時間をなんとかやりくりすることでクリアしている。ただし滞在時間が30分ほどなので、活け込みは1回勝負。花を手にするまでは山積みの仕事が気になって「お稽古どころじゃないよなぁ」と気が重いが、不思議なことに活け始めるとそんなことは忘れて形と色彩の世界に没頭してしまう。多分、程よい気分転換になっているのだろう。
通い始めてまだ8カ月の私は、基本の形を繰り返し活ける。先生の口から何度となく聞かされる「シン、ソエ、ヒカエ…」の言葉が耳底にこびりつき、トライアングルのように動く先生の指先がまぶたから離れない。その三角形がなぜ美しさの基本なのか、私にはその理由がまだ理解(体感)できていない。内心いつも「そんな枠を取っ払って自由に活けたい!」と思っていた。
いよいよその時がやってきた。今日のお稽古はクリスマスがテーマの特別バージョン。いつもと花材が違う上に、好きに活けていいとのこと。しかも花器に活けるのではなく、オアシスを使って花籠のように盛るのだ。若い頃、フラワーアレンジメントを囓った私は、その経験も生かそうといつにも増して集中した。
しかし、完成したのは妙に和洋折衷の花籠。ゴージャスなのかうるさいだけなのか、なんとも納得のいかない花籠となった。抱えて事務所に戻ると、スタッフから「何事ですか?」と驚かれた。そう、それは手の間には全く似つかわしくない姿をしている。まるでドレスコードにひっかかった年増の風情だ。先生が指導してくださる基礎がまだ身についていない今の私にとって、自由に活けるというのは無理な話なのだと、ため息が漏れた。何事も応用の前に基本形が大事ですなぁ。
月
06
12月
2010
この1年
今年一番の思い出は、直島に行ったことかな。
今週から私も本格的な忘年会シーズンを迎えた。いつもの飲み会と少しだけ違うのは、会話の中に「今年はどんな1年でしたか?」というフレーズが加わること。そして別れ際、「よいお年を!」という挨拶が交わされることだ(これは気が早すぎて、年内に気まずい思いをする場合もあるが)。
この1年間で3カ所の手術をした私にとって、今年は病気と付き合った1年だった。しかし、いずれもたいしたことはない。私の回りでは今年、重い病に倒れた友人、知人、親戚が増えた。医療ミスも目の当たりにしたし、永久の別れもあった。命はある日いきなり尽きてしまうのだと、改めて思い知った。いや、尽きずとも、風前の灯火のごとく弱々しい命では、生きることの意味が誰のためにあるのか、私には判じかねる場面もあった。
そんな折、叔母が放射線治療を始めた。叔母といっても私とは歳も近く、姉のような存在。明るくて愛らしい“娘さん"という印象が、いつまでも変わらない人だ。けれど、放射線治療が始まって2週間。見舞う度に、叔母はだんだん小さくなっていく。言葉が途切れるのが気まずくて、あれこれ話しかける私に静かに頷いていた叔母が「薬を塗ってほしい」と、おもむろに毛糸の帽子を脱いだ。私は薬をてのひらに受け、髪の毛の抜け落ちた頭皮にそっと塗っていった。手術跡が溝のように刻まれた叔母の頭はまるで桃のよう。私はそれを両のてのひらですっぽりと包み込む。
熱を帯びた淡いピンク色の頭皮。叔母が目を閉じたまま「冷たくて気持ちいい」とつぶやいた。私は桃の皮に傷をつけないよういっそう丁寧に、ゆっくりと手を動かした。この果実が決して枝から落ちませんように、そう願いながら。
月
06
12月
2010
時を重ねて大人になれたのか?
手の間の一隅を彩るバラは、今を盛りに美しい。
気づくと師走。今年も一年が瞬く間に過ぎてゆく。その実感は、年を重ねるほどに深くなった。私の時間に加速度がついたのは、いつ頃からだろう?
若い頃は早く30歳になりたかった。仕事を覚え、何かを任せてもらえるだけの力をつけ、大人として接してもらえるようになりたいと願っていた。その目安が私にとって30歳だった。そう思うようになった出来事が2つある。
ひとつは、就職してすぐに出向したファッションビルが思わぬ不振にあえいでいたとき。そのビルの4階で情報提供のサービスをするカウンター業務についていた私は、流通本体の社員からきついひと言を浴びせられた。「エスカレーターを毎日4階まで昇降させるには月100万の経費がかかる。せめてその100万を回収できるだけの働きをしなさい」。デパートなど流通ビルの最上階に催事場が置かれているのは、シャワー効果といって客をいったん集約した後、各階に降ろしていくことで回遊性を高め、購買の機会を増やすことを目的としている。つまり、サービスを受けたいと思う客を見込んで4階にあなたを配置しているのだから(あなたの会社にお金を払っているのだから)客を呼び込む工夫をしろ、ということだ。もっともだ。しかし、大学を出たばかりの私には情報の何たるかも、ましてや仕事を自分でつくるということがどういうことかも全く分かっていなかった。役に立てていない負い目と何をすべきかが見えない焦り。「仕事」の形がつかめず閉塞感のなかにいた。
もうひとつはその後のこと。出向先から編集部に配属が変わり、「仕事」というものが具体的な形として見え始めた頃。それをこなすのは思いのほか簡単だった。手法とルールさえ覚えれば誰でもできる「作業」を「仕事」と混同していた私は、全く成長していなかった。ある日、業務提携の挨拶に出かけた某大手新聞社の担当者に「女・子どもに渡す名刺はない」と告げられた。さらに「とにかく締め切りに遅れないよう、間違いのないイベント情報を配信してくれればいいから」と面倒くさそうに言い渡され、顔合わせはおしまい。何が何だかわからないままに新聞社を後にした。おそらく当時の私は、学生アルバイトの延長のような雰囲気で、信頼感などこれっぽっちも漂わせていない“パシリ”のような者に映ったのだろう。そして、実際にそうだったのだと思う。
その2つの体験を経て短絡的な私は、年さえ重ねれば仕事の出来る大人になり、30歳くらいになれば雰囲気のある人間になれるのだろうと漠然と考えるようになった。その結果は・・・言うまでもない。そして今さらながら、20代を謳歌することなくがむしゃらに30代へと突き進んだ自分を悔やむ、40代最後の師走なのである。
月
08
11月
2010
鮑三昧と海の朝食に大満足。
この海を眺めながら朝食をいただいた。
来年の春、東京へ戻っていく友人の送別旅行をすることになり、食事の美味しい宿へ行こうということになった。選んだのは、壱岐にある「海里村上」。食材に恵まれた壱岐の本領発揮と評判の宿で、いつか訪ねてみたいと思っていた。部屋の造りやお風呂、談話室など、設備は清潔で居心地良く、何より旅館にありがちな過剰なサービスはなく、スタッフの程よく距離をおいた対応が、くつろげる。
夕食は、「このわた・砂ずり醤油漬け、鮑肝塩辛・玉子味噌漬け」の前菜に始まったものだからシャンパンを開け、エスニックな香草がきいたタレにつけて食べる「車エビの酒蒸し」で白ワインに進み、「鮑のしゃぶしゃぶ」で赤ワインを空けた。素材も彩りも盛りつけも申し分なく、ワインの品揃えもかなりのもの。我々は、メニューにないケーキまで無理矢理テーブルに運ばせ、遅くまでレストランを占拠し、結局、旅先でもいつものワガママオバチャンぶりを発揮。
翌朝は、ちょっとしたサプライズだった。青い鏡のように凪いだ海を眺めながら食事が出来るカウンター席へ。自家製の海苔の佃煮もカマスの干物もジュースも何もかもが美味しかった。なかでも心憎い演出が、魚市場で競り落としたばかりという(ホテルに仲買の免許があるらしい)ヒラマサを3切れ、アオリイカの短冊をほんの一盛り、そして目の前で揚げてくれる天ぷらが鮑2切れ、イカゲソ2切れという具合に、海の旅館らしいメニューをお腹いっぱいではなく、心いっぱいになるように出してくる、その計算ぶりの正確さ。海ものづくしなのにどの皿を食べても飽きが来ず、朝からビールを飲みたい気分になった。
しんみりするはずの送別旅行も、一皿一皿に歓声をあげている間に終わってしまった。ひたすら食べて飲んだ以外、特別な思い出は何も生まれなかったけれど、東京に帰った友人が「九州って、魚が美味しいところだったなぁ」と、ふと思い出してくれることがあれば、それで充分なのかなとも思う。仕事漬けの四十路女3人旅、色気のない話ではある。
金
29
10月
2010
わびさび、九州って?
手の間の小さな花にもワビサビが!
丁度昨年の今頃、手の間のホームページを見たというカナダ人のダフさんが、我々を訪ねてきた。ダフさんは『wabi-sabi JAPAN』という旅行会社を、カナダはトロントで経営している人物で、かつて福岡でも暮らした経験を持つ。そのとき、日本の奥深い伝統文化に気づいたダフさんは、帰国後、ステレオタイプな日本ツアーではなく、真に美しい日本の姿を海外旅行者(ターゲットはVIP)に紹介する旅行社を立ち上げたのだ。
客はVIPで目も肥えているのだから、案内先は上質かつ本物の日本美が集約された場所や職人でなくてはならない。京都や金沢はダフさんが求める“わびさびジャパン”の宝庫だが、九州の場合、それはどこにあるのかリサーチに来たということだった。海外VIPを案内したい場所は、小石原に小鹿田が筆頭、そして八女、竹田、阿蘇などが続く。しかしこのコースをうまく回すための旅館が見当たらない、というのが問題点だった。
そして今年再び、ダフさんは九州にやって来た。「今、萩デス。明日ノ夜、食事シマショウ」。できればプライベートで会いたいという。その意味は、通訳抜きで会おう、ということ。日本に入ってからずっと仕事づくめのダフさんは、懐かしい福岡でリラックスしたいのだという。私は焦った。昨年は、通訳を伴っての来福だったから意思疎通できたけれど、二人だけというのはマズイ。とりあえず私は、日常会話ではまず使わない、旅行業界の専門単語をいくつか丸暗記して、ダフさんが待つホテルのロビーへ。
しかし、心配は杞憂に終わった。美味しい料理とお酒の力というのは素晴らしい。言葉の壁を軽く越えさせてくれる。我々は主に石川の話で盛り上がり、加賀温泉『べにや無可有』の料理や設えのセンスの良さ、『あらや滔々庵』のバーの格好良さ、果ては私が一番好きな杜氏『鹿野酒造』農口尚彦さんの話で完全に意気投合!と同時に、ダフさんの日本美に対する感覚のシャープさに、私は感心した。
石川には他にも、能登に『さか本』、白山に『うつお荘』という素晴らしい宿があるが、これらのマニアックさは、まだ海外旅行者には理解できないとダフさんは判断している様子。また超有名な人気高級旅館に対しても、“おもてなし”の心が感じられない宿はNG。なるほど、微妙な線を突いてくるダフさんの視点は、日本に畏敬の念を抱いてやってくる海外VIPには信頼に値するものだろう。ちなみに今回アテンドしたお客さんの旅費は、アメリカのカップルで700万円だったとか、ポルトガルの夫婦は京都の骨董屋で1200万円の買い物をしたとか…。私には縁のない人々だ。
ひるがえって九州の旅行資産を考えてみるに、ダフさんの悩みもよくわかる。潜在的なクオリティは非常に高いけれど、洗練されたものはほとんどない。「洗練」というのはお金をかけて新しいスタイルを取り入れることではなく、本質を磨き上げた結果滲み出てくる雰囲気のようなものだと私は理解している。心の手仕事だ。これは、一朝一夕には生まれない。しかし、「まぁ、それがリアル九州なのよ」と言いたい気持ちも、私にはある。人間みんながみんな、高尚にばかり生きてはいられない事情ってものがあるのだから。粗野をダイナミズムに置き換えてみれば、九州も捨てたものじゃない。
1年ぶりのダフさんとの再会は、いい刺激になった。改めて、私の九州に対する理解度を確認させてもらったし、外国人の日本に対するニーズも少しだけ理解できた。こうやってときどき、自分の立ち位置を客観的に捉える機会をもつことはいいいことだ。が、残念なことに、異言語交流で回転しすぎた私の脳みそは一晩でオーバーヒートしてしまい、翌朝、知恵熱が出てしまった。もっとダフに、いやタフにならなければ!
土
09
10月
2010
13歳、若返りたいけれど……。
大潟村の風景。見渡す限りの稲原。
一昨日、私は自宅で缶詰になって原稿書きをした。文章量は4500〜5000文字。ボリューム自体は苦ではないが、数日間の旅を紀行文風にまとめながら、旅人(クライアント)の心に芽生えた自己啓発的な気づきや想いも織り込まなくてはならない。それがややこしい。
もともと自分の文才を信じてはいないが、それ以上に悩ましいのが、私と旅人とのジェネレーションギャップだ。我々の間には13歳の年齢差がある。つまり、私がすでに社会人として働いていた時、旅人はまだ小学生。感性はもちろんのこと、育った環境や時代背景が違いすぎて、旅人がハマるツボを探るのに時間がかかる。私は必死で旅人の目を持とうと…いや、「いたこ」になろうと神経を集中させる。
今回の旅先は秋田県大潟村。長年、減反政策に反対し続けてきた涌井徹さんが、今回の農家戸別補償制度に賛同し、減反を受け入れた背景にある事情と戦略をうかがうことが軸だ。米の自主流通が規制されていた当時、「ヤミ米」協会を率いる涌井さんは度々メディアに取り上げられ物議を醸してきたことを、私はリアルタイムで知っている。しかし、旅人にその記憶は遠い。当然だ。
私は、旅人と等身大の心を持てたらどんなにいいだろうと思う。と同時に、私が13歳若く、旅人と同じ時代を生きてきたとしたら、今頃どこで何をしているだろうか、とも思う。私が就職した年は氷河期で職はなく、もちろん、男女雇用機会均等法など成立する前の話。今のように、帰国子女や留学経験者があふれているということもなかった。ネットどころか、携帯電話すらない私の十代、二十代。
なんとか原稿を納品し、仕事仲間とブレスト飲み会をした昨夜のこと。話題がオイルショック時のトイレットペーパー買い占め事件におよんだとき、みんなの表情からスーッと活気が消えた。そして一人が「ええ、母から話を聞いたことがあります」と言った。そうだった。彼女たちは旅人と同い年。オイルショックは生まれる前の話だ。13歳の年の差を埋めるのはなかなか厳しい……そう悟った瞬間だった。
水
06
10月
2010
移ろうもの
久しぶりに訪れた店で再会!
先週、久しぶりに唐津で一夜を過ごした。メンバーは、佐賀で農業を営む武富勝彦さんとカメラマンのSさん。私とSさんは8年近く武富さんを取材し続けていて、いよいよ本にまとめようという段階にきた。その最終章の取材がてら、たまにはのんびり食事でもしようということになったのだ。
武富さんは我々のために、魚の美味しいこじゃれた小料理屋を予約してくれていた。そこで武富さんの食養生論を伺う。耳を傾けつつ、この8年間で武富さんの食と健康に対する考え方が著しく変化していることを再認識。180度とは言わないが、100度は方向転換している。なるほど、人は常に変わるのだ。
その後、2軒目でカメラマン氏はダウン。武富さんと私は3軒目の寿司屋『海幸』へと足を延ばした。そこで〆のワインを飲みたかったのだ。私はここのセラーが好きだ。町家の食糧貯蔵庫を上手に利用したもので、地下にある。そこで、なんと思い出のリオハを発見!7〜8年前、まだご主人がお元気だった頃(現在は病気療養中と聞く)、すすめてくださった1本だ。なんでも、田崎真也が世界最優秀ソムリエコンクールで優勝した際にブラインドで出されたワインだと伺ったような・・・。
あの夜、浮かれて飲んだリオハは残念ながらピークを過ぎていた。お店の方は別のワインをすすめてくださり、リオハは持って帰って構わないとおっしゃってくださった。傍らで武富さんは突っ伏したまま。私は一人、美味しいブルゴーニュと寿司を1貫つまんだ。人は変わる。ワインも変わる。秋が始まったからでもあるまいが、流れた歳月を思わずにはいられない夜だった。
火
05
10月
2010
山の秋
私が見た秋の手前の月
季節の変わり目だ。急な気候の変化に体調を崩してしまった人も多いだろう。私もなんとなく内臓の調子がいまひとつ。
しかし私は、季節の変わり目が嫌いではない。慣れきった空気の中に混じる、新しい季節の違和感にハッとさせられるとき、心がざわつく感覚がいい。季節がぐるりと動こうとする、その瞬間をつかまえたような気分になる。
先週、三瀬の山奥に窯を構える「皿屋」の川本太郎さんを訪ねた。日中なのに気温は18度。ふもとより5度以上も低く、縁側で話していると寒さに身体が震えた。いっきに寒くなったと、川本さんはいつものボソボソした声で話してくれた。「今年の夏はとっても暑かった。こんな年の冬は大雪になる」と。
帰り際、川本さんは、裏山にはえていたムベの蔓を土産にとってくれた。実は青いけれど、形は秋そのもの。ススキが日の光を受けて輝き、こぼれんばかりの萩が風に揺れ、アザミがワシワシと葉を茂らせて立っている。「皿屋」窯はすでに秋に包まれていた。
川本さんが焼く器に「山茶碗」がある。見込みが浅く、すっと立ち上がって、ぐらりと流れる、なんとも素直な形をした碗で、私は大好き。この日、数枚を仕入れた。川本さんがくれたムベの実と山茶碗は、今、手の間にささやかな秋を連れてきてくれている。
火
07
9月
2010
過去を振り返る
工事前の手の間/2005年10月
今年は何かと人前で話す機会が多い。その際に求められるテーマは「手の間を通じて実現したいことは何か」というものが大半だ。
多くの人にとって「手の間」という言葉の響きが何を意味するのか気になるらしい。また幸か不幸か、発行している雑誌が少部数というのも手伝って、「コツコツとものごとを掘り下げて取材している人々」というイメージを持たれているようだ。
実際のところ、私は、あまり深く自らのテーマを考えてはいない。目の前の業務をやっつけることに日々終始している。けれど、人様の前で話をするとなると、面倒でも過去の日々を振り返り、関わってきた仕事の意味を整理しなくてはならない。そうやって改めて、働いてきたこの25年間を客観的に見つめてみると、全く意識していなかったけれど、私の興味の対象は「人」にあるということがわかってきた。
『手の間』の「手」が意味するものは、文字通り「手・てのひら」だ。そこから、「人の手技」→「手仕事」→「工芸品」と連想し、「手の間は伝統工芸を取材する雑誌ですか?」と質問されることもある。確かにその一面もあるが、「手・てのひら」に私が託したものは、「人間」や「人生」だったのだと、今さらながら気づいた。